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恥という病
2022/07/15 生活

「恥を知る」という言葉がありますね。

恥ずかしいという感情とのつきあい方はとても難しいものだと
わたしはいつも思います。



わたしは自分自身の体験もあったので、
20年ほど、アルコール依存や摂食障害などの
アディクション(依存症)で悩む方の話を聞く機会が多くありました。


それを通してわたしが気づいたことは、

「恥」の気持ちを持っている人のほうが
依存症が深刻になりやすい

ということです。


アルコールに依存してしまう人や、
たばこに依存してしまう人、
恋愛に依存してしまう人など、

いわゆる「依存症」の人は、


「依存」の状態がだらしなく見えるために、
一般的に「だらしない人」と思われがちですが、
実際は逆で、実は几帳面でまじめな方が多いのです。



依存症の中でも、身体的依存についてはお医者様にまかせるとして、
今回は精神的依存、こころの依存についてお話ししたいと思います。


たとえば、
「わたし、たばこ止められないのよね」
と笑って人に言えるような人は、
心の状態はそれほど深刻ではありません。


よく、ヘビースモーカーとニコチン依存、酒好きとアルコール依存の違いは、どういうものなのか、
と議論になることがありますが、
「お医者様に診察してもらって、依存症と診断された」というくらいのもので、
明確な差はありません。
(もちろん診断のためのガイドラインはありますが)


わたしたちの体は「困っていなければ」病気として治療対象になることがないので、
アルコール依存ではないけれど、依存的な飲み方をする人もいますし、
とてもアルコール依存にはみえない、アルコール依存症の人もいます。



わたしが感じる、依存症の方の共通点は、
「隠したい」という「恥」の感情を持っているということでしょうか。


とにかく隠したがります。


たとえばギャンブル依存だと、
「パチンコ行ってくる」と言えなくなってきて、
「仕事に行く」とか「飲みにいく」と
隠れて行くようになるころが、状態が進むときです。


また、「キッチンドランカー」という言葉がありますが、
あれは、料理を作りながらお酒を飲む人のことではなく、
キッチンにあるお酒を飲む状態で、
その根本にあるのは、


「手軽だから」というのもありますが、

 

なにより
「飲まれているのを知られたくない」とか、
「隠れて飲める」というところから来ているのではないかと思います。


ただの大食いな人は(たとえその食べ方が病的であっても)たくさんいますが、
摂食障害といわれるように状態が深刻なのは、
「隠れて食べる」とか「食べたあとに(太らないために)吐く」ようなときです。


さらに深刻になると、「ある特定の親しい人」にだけ
その状態を知ってもらいたいと思うような段階になって、
パートナーやご家族がその状態をもちきれなくなって、相談に来られます。


でも、ご家族ができることは、
「信じて見守ること」


それだけです。


それはとても忍耐が必要で、とてもつらいことだと思います。


でも、ここで誰かがその感情を肩代わりしてあげても、
ご本人は楽にはなりません。



依存を深刻にしてしまう根底の感情は、「恥」だと言いました。

わたしたちは生育の過程で、
いろんな「世の中のルール」や「決まりごと」、「あるべき姿」など、
「正しいこと」と「間違っていること」を学びます。

 



それは、学校や社会でスムーズに生きていくために、必要なことでもあります。


ですが、わたしたちには厄介なことに、
それぞれ生まれるときに決めてきた「コダワリ」があって、
それが「感情」をつくっています。


ですので、「コダワリ」にあわない「判断」に出会ったとき、
「嫌だと感じる自分がいるけれど、この場では、やることにしよう」など、
自分の感情を整理することが必要なのです。


自分の心の声を聴かずに、言われるまま、
「これが正しい」「これは悪い」という
外の考えを受動的に引き受けて来た、ある意味ではとても素直な人は

気づいたら頭がルールブックのようになってしまって、
そのルールブックにあっていない自分を無意識のうちに責め、
恥かしいと感じるようになってしまいます。



恥というのは、自分以外の世界との兼ね合いで生まれる感情ですが、
その根本は、「コダワリ」。



「コダワリ」は、その人の人生そのものですので、
ご本人以外の誰かが
なんとかしてあげることはできないのです。



「恥」という感情は、とても生きづらい感情のような気がします。

 



そのなんともここちの悪い、ざわざわした感じを紛らわせるために、
わたしたちは、ゲームに熱中したり、インターネットに耽ったり、
「自分の外」に意識をむけて
「つらい自分」から逃げようとします。



でも本当は、つらくしているのは、他の誰でもなく、自分自身です。
「恥ずかしい自分」と決めつけ、裁いてムチを打つからつらいのです。


わたしは、そんな自分と向き合って、克服するべきとは思っていません。

癒す必要もないと思っています。




ただ、そんな自分を「認めること」。



「恥ずかしい」と思う自分に気づいて、むち打つことを止めること、



それだけで癒されるのだと思っています。
傷つけているのは、自分自身の思考だからです。



わたしたちは、人とどんなに違っているように見えたとしても、
やっぱり同じ人間なのです。



ちょっと自分にとってお花の咲き具合がイマイチだったバラも、
やっぱりバラで、コスモスではないように。



そして、どんなお花もまた、美しいかけがえのないひとつの個性であるように。

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Yuriel

〜 魂のテーマをナビゲート 〜 ☆「癒すこと」が目的でないホリスティックカウンセリング&スピリチュアルコーチング☆ A Course in Miracles(奇跡のコース)をベースにした、 超意識を活用したカウンセリングをしています。 ある時期には、電話占いサイトを中心にスピリチュアルカウンセラーとして 4年でのべ5000人以上のスピリチュアルリーディングをさせていただき、い... >>続きを読む

 

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