瞑想のとき、呼吸に集中するといい、とよくいわれます。
「呼吸に集中する」といっても、どうしたらいいのかよくわからないかもしれませんね。
わたしもかつて、それは一生懸命呼吸をすることかと思っていました。
瞑想しながら、呼吸を眺めていると、マインドが、
「あ、つかえてる感じ」とか、
「流れてる」とか、
「あたたかい」とか、
「呼吸が浅い」とか、
いろんな言葉で「今」を説明しようしてしまうことに気づくのです。
わたしたちは、その瞬間に、その言葉にとらわれてしまうような気がします。
力強かったり、
とても繊細であったり、
広がりであったり、
沈む感じであったり、
本当は、同じ瞬間に、ほかの要素も無数に存在しているのに、
言葉にとらわれた瞬間、他のことが見えなくなってしまうのです。
人間関係も同じなのかもしれません。
「この人はかわいい」とか、
「この人はがんこだ」とか、
「この人は頭がいい」とか、
そう判断したとたんに、その人のほかの要素はみえなくなって、
本質から遠ざかってしまうように思うのです。
現実だと思ってることもきっとそうなのでしょう。
「裏切られた」とか、
「苦しい」とか、
「悲しい」とか、
見ている現実のほかにも、わたしたちの世界にはいろいろな現実が同時に存在しているのに、
わたしが「裏切られた」と思った瞬間、
わたしが「裏切られた」現実を確定してしまいます。
本当は、「裏切られた」のではなくて、「自由を与えられた」のかもしれないし、
「苦しい」現実のまわりには、たくさんの「しあわせ」の花が咲いているかもしれないのに。
わたしたちの肉体の目は、なにかをとらえた瞬間、その他のものを見えなくしますし、
わたしたちの心も、なにかにとらわれた瞬間に、他のものの存在を忘れます。
無数にあるすべての要素が、本質なのです。
今のわたしは、「呼吸に集中する」とは、
「呼吸をしている自分を観じる」ということなのかな、と思っています。
わたしは、瞑想のあいだじゅう、
今まで見過ごしてきた無数の現実と、無数の感覚の存在を楽しんでいます。
わたしたちは、無数の要素を含有しています。
美しく、けなげで、まじめで、頑固で、傷つきやすくて、強くて・・・
それも、全部、ひかりであるわたしたちの要素の一部です。
そして宇宙もまた、ひかりという粒子でできた、無数の要素の集まりです。
それが宇宙とひとつということなのかもしれません。