今日はわたしが体験した不思議なことをお話ししたいと思います。
わたしのメンターのひとりは、
不思議なことは、思っても議論してもいけないから、
「不」・思・議、なんだとよくおっしゃっていました。
ですので今日の話は理屈はありません。
「不思議」なお話として聞いていただけたらと思います。
わたしはセラピーの一環として
ヒプノセラピー(催眠療法・過去世退行)をしていたことがあります。
ヒプノセラピーとは、セラピストが声がけによって誘導することで
クライアントをトランス状態に導き、過去の記憶に遡ってもらうと、
「今」起きている問題と似た経験を思いだしたり、
その原因となっている「思いぐせ」ができた出来事を思いだすことができるので、
それを手がかりに、問題を客観的にみることによって
凝り固まってしまっている問題に対する捉え方を変えるよう動機づけたり、
思いぐせの書き換えをしたりして「今」の問題を解決するという手法です。
それはドラマティックな楽しいセラピーで、一定の効果もあるのですが、
問題を過去にある(自分以外の)原因とすることで、
逆に現在の問題から逃避してしまい、
現在の問題が深刻になってしまうという側面もあったので、
わたしは、過去に原因を探す「トラウマ解消」にフォーカスしたセラピーはしなくなりました。
ですが、過去に退行するセラピーをしていて、いくつもの不思議な体験をしました。
たいていは、「現世(この世に生まれてから)の」と誘導しますので、クライアントさんは、
「5歳のとき、お母さんがイライラしていて頭ごなしに怒った」とか、
「3歳の夏に、ひとりぼっちの部屋で泣いて助けを呼んでいた」
という場面を回想してくださるのですが、
なかには「ギリシャ時代の神殿にハーブを持って仕えている」とか、
「インカの道を歩いている」とか、
明らかに、クライアントの生きている「現代」とは違う設定のものもあるのです。
わたしたち東洋人には、仏教の影響があって「輪廻転生」はなじみのある考え方ですので、
それほどの抵抗はありませんが、
『前世療法』の著者で精神科医のブライアン・L・ワイス氏は、著書の中でも
催眠療法中に偶然出会ったクライアントの「過去世」という体験が
キリスト教の価値観の中にないため、とても混乱したと述べています。
リーディングでクライアントの本質に触れるときも、
とても清らかでありながら男性を寄せつけない女性に「修道女」の過去世を感じたり、
男性的に仕事をしている方の中には、過去世で経済的な困窮を体験した、という情報を得ることがあります。
リーディングはセラピスト側が一方的に伝えるものなので、
クライアントも「ふーん、そんなものかな」という感じにとどまる場合も多いのですが
ヒプノセラピーでは、語られるのがクライアントご本人ということで、
より「そうだったんだ」とより強い印象を持たれることが多いようです。
(結局は変性意識下の出来事であり、自分と他者との境界がない状態であるので、
リーディングもヒプノセラピーも、同じことなのですが)
そんな「過去世(前世)」ですが、
最近のスピリチュアルブームで、「怪しいもの」と思う人は少なくなりました。
「わたしの前世は○○なの」という具体的な印象がなくても、
「生まれ変わりってあるかもしれないなぁ」という考えを持っている方はとても多いと思います。
少なくとも20年くらい前には「前世」は今よりずっと怪しく遠い存在でした。
わたしが、「前世」というものを知ったのは、
ちょうど20年くらい前に友人の医師から紹介された、イアン・スティーヴンソン著
『前世を記憶する子どもたち』によってでした。
この本は1990年に研究者が書かれた本で、いわゆる「スピリチュアル本」ではなく、
調査した事実だけを淡々と書かれた研究文献でしたが、
それでも当時のわたしには、「オカルト本」にしか思えず、
気持ち悪い研究をしている精神科医がいるなぁ
くらいにしか思えなかったことをはっきりと覚えています。
そんなわたしが今、「魂」とか「意識」についてお話しすることが仕事になったのですから、
この20年のわたしたちの集合無意識領域に起きた意識変容のスピードは
すさまじいものがあると思います。
特に1995年の阪神淡路大震災、2011年の東日本大震災と大きな地震が起きるたびに、
わたしたちの意識がシフトしていると感じます。
それくらい、わたしたちは、「不思議なこと」をありのままに受け止めることを求められている、
そんな気がするのです。
わたしは、「前世」が正しいものなのかどうか知りません。
本当にあるのかもわかりません。
でもただひとつ、自分の体験を通して言えることは、
「あるようにみえる」ということです。
そして、ここがすごく面白いことなのですが、
前世は「キリストだった」とか「釈迦だった」という人も
実はたくさんいるということです。
もし単なる「生まれ変わり」なのだったら、
たぶん、キリストの生まれ変わりは同じ時期にひとりしかいませんし、
釈迦の生まれ変わりも複数いないでしょう。
そもそも、伝統的なキリスト教の考えなら、生まれ変わる(復活する)ことができるのは、
キリストだけであり、人間に生まれ変わるなどなさそうですし、
釈迦の生まれ変わりもたくさんはいなさそうです。
でも、キリストや釈迦が生まれた当時に比べて、明らかに人口は増えているので、
同じ体験をした魂を複数の人がシェアしていることは、
数の論理から考えると、あたりまえという気もします。
わたしが出会った例でも、
日本人なのに、前世は中国にいたみたいで、中国に親しみがあるとか、
過去世のどこかでヨーロッパにいたことがあると思いだした方は、
ヨーロッパのある街を「初めて来た気がしない」と言っていたり、
語学は堪能なのにスペイン語だけはどうしても頭に入ってこないという方は、
スペイン人に戦争で殺された過去世を思いだした、ということもあります。
ということは、
わたしたちが、ご先祖と思って敬っている方は、
現世、他の国で違う生活をしているかもしれません。
あの国はどうしても虫がすかないと感じる国に、
その国を助けるために生まれているかもしれないなぁ……
そして、自分が罪悪感を感じているあの人には、
実は過去世では、反対にやられっぱなしで、
恨みを晴らしにきてしまったのかもしれないなぁ……
……。
目の前に繰り広げられるさまざまな事象をありのままに受け止めていくようになったら、
あるときわたしにとって、過去世は、大きな袋の中にある「水」みたいなものに、
感じるようになったのです。
釈迦という形があります。
それは氷でできています。
死んだらその大きな袋に入ります。
そして、とけて袋の中の水になります。
わたしという形の氷があります。
生きている間は氷ですが、
死んだら、袋の中に入って、水になります。
イエスも、大好きなあの人も、大嫌いなあの上司も、絶対にゆるすことのできない元彼も、
みんなその袋の水からできた氷です。
いろんな個人的な体験の波動がつまった水からできたさまざまな形の氷。
とても面白いけれど、
とても恐ろしい、受け入れがたい話です。
だから、わたしたちは忘れたことにして生きています。
分離の幻想は、わたしたちが「この世に対する安心感」を体験するのに必要なことみたいですよ。
繰り返しますが、今日の話は「不思議」な話です。
思考せず、議論せず、「不思議だった」と聞き流してくださいね。