この場所にいていいんだろうか。
この仕事をやっていていいんだろうか。
一度でもそんな気持ちになったことがあれば、きっとお分かりのことと思います。
そんな心もちのときは、やることなすこと、すべてが裏目に出てしまい、
ますます「やっぱり……」という気持ちが強まる、ということを。
そして、だんだん、
「ここにいないほうがいいのかもしれない」という気持ちが強まって、
いられない状況を自らつくってしまうことは、とてもよくあることです。
今のわたしは、いじめられる方からの相談を受けることもありますし、
わたし自身がいじめられた経験を振り返ってみても、
いじめに遭うときには、
「ここにいていいんだろうか」
という迷いがいつもあったように思います。
実際に、いじめっ子からは、
「いい子ぶっているから」
「変わっているから」
「髪型が気に入らないから」
「暗いから」
など
あれこれ具体的にいじめられる理由を聞かされるので、そうなのだと思っていました。
そして、それが直ればいじめられなくなると信じていましたし、
その努力をしたこともありました。
実際のところ、多少よくなることもありましたが、
多くの場合は次々に新しい「理由」が登場して、
いじめられるという現象がなくなることはありませんでした。
そのうち
「キモい」とか
「ウザい」とか、
対処のしようがない理由があがるようになり、
どんどん「いじめられる」状況にはまってしまった気がします。
そして、「その場所」にいてはいけないんだ、いう気持ちが強まり、
ついには、「地球に存在してはいけない=生きていてはいけない」というように
思い詰めていったのでした。
大人になると、真正面からいじめてくるような人はいなくなりましたが、
心の中でわたしは、「自分はどうせ認められない」という思いがあり、
周りの人と表面的には仲よくしていても、
ちっとも心は安らがなくて不安がいっぱいでした。
だから、いつも「わたしはなんで生きているんだろう」と悩み、
「生きる意味」を追い続けていたのでした。
仕事で成功すること、
お金を稼ぐこと、
結婚して幸せな家庭を持つこと、
豊かな暮らしをすること、
好きなことを仕事にすること、
夢を追いかけること……
なにかを手に入れれば、
幸せになれる、
生きていることが肯定できる、
自分が生かされている意味を知ることができる、
そう思ってあらゆることに取り組みました。
実際に、なにかに取り組んでいるときには
「生きていてもいいのか」という問いから、
自由になれました。
「いのちの意味」というのは、幸せの鍵のようにもみえますが、
一方ではとてもシビアな問いです。
「いのちの意味」を考えるというのは、「生きていること」に迷いがあるときだからです。
生きることに迷いがないときには、いのちの意味など、考えたりしないのですから。
わたしは、そんなことに取り組むうちに
気がついたら、人のご相談をお聞きする仕事に就いていました。
そしてたくさん「迷い」を聞くことになりました。
「仕事への迷い」
「生きることへの迷い」
あらゆる迷いのとき、見えるビジョンは、一本の樹でした。
根っこがまだはっていないひょろっとした若い樹が、
一生懸命果実を結ぼうと努力しているビジョンです。
早く花を咲かせるために、上へ上へと伸びようとするのに、
根っこが弱くて倒れてしまったり、
根っこがまだできていなくて小さな花しかつかなくて、
思うような実を結べずにいて、
焦っている姿。
ああ、これがわたしだったのだ。
そう思ったのでした。
いじめられているとき、外側の世界にばかり気をとられていて、
わたしは自分の根っこがぐらぐらで、
実を結ぶにはまだ若すぎる木だと分かっていなかったのです。
わたしはどうも、母のお腹の中にいるときから
「生まれてきてよかったのだろうか」と思っているような
困った子どもだったみたいです。
実際に胎内にいるときに、そういう状況だったようですし、
占星術でみてもそういう星のもとをわざわざ選んで生まれてきたようです。
ですから、他のお子さんと違って
根っこが育ってなくて
ひょろっとしていたのでしょう。
だから「違う」「変だ」といじめられたのですが、
わたしは一生懸命、幹を太くして枝葉を茂らせることばかりに気をとられて、
それらを伸ばすために必要な根っこを伸ばすということに気づかずにいたのです。
それからわたしは、迷いのある方が
根っこを伸ばしていかれますようにと
そのビジョンを送るようになりました。
根っこをはる必要があるのは、子どものときに辛いことがあったりして、
根っこが育っていない人だけではありません。
植物の木は、種を蒔かれた場所から動くことはありませんが、
人間は、成長の段階で移動することがあります。
豊かな土地から、土地を豊かにするために移されるようなことがです。
豊かな土地で育まれた大きな樹が、やせた大地に移され、
そこでまたたくさんの実をつけて、鳥を呼び、
豊かな土壌を創っていくようにと。
そんなとき、やっぱり人はぐらぐらします。
根っこがまだ新しい土地に張り巡らされていない、
そんなとき、迷いが生じて同じようなことが起ります。
問題はその土地にはないのです。
まだ、あなたがまだそこになじんでいないだけだからです。
でもわたしたちは、うまくいかないときほど外の世界の評価が気になりますから、
実をつけなければ、枝葉を茂らさなければ、と焦ります。
そのように上へ上へと意識を向けると、ぐらぐらしてうまくいきませんから、
ますます落ち込むという悪循環に陥ってしまいます。
根っこがのびていないと、「その場所にいてはいけない」という錯覚に陥り、
それが募ると「生きていてはいけない」という気持ちへと変わっていってしまうのです。
わたしたちは、みな「生きている」のです。
あなたが、息をしている。
それだけが現実です。
人間は死にたかったら死ねるのですもの。
わたしが一番慕っていた祖父がそうでした。
死んではいけない理由も、生きている意味もいくらでもあったのに、です。
「人間は、自分の意志で死ねるんだなぁ」
そう思いました。
世間では、「死んではいけない」とばかり聞かされましたが。
死ぬのが怖かったり、
死ぬための行動に向かわないでいるのは、
やっぱりまだ、生きていたいのです。
それが、今、実感できなかったとしても。
だから、わたしはもう「生きる意味」を考えるのはやめました。
そして、「今生きていること」を、肯定することにしました。
自分がダメな人間であっても、ぐらぐらしない。
仕事がこれでいいのかと迷っても、まず一生懸命やってみる。
この人でいいのかと迷うより、とにかく誠意をもって一緒にやってみる。
まず根っこをはることを意識するようになると、
少しずつ、なにごともうまくいくようになりました。
それが「縁を大事にする」ということなのかもしれませんね。
一生懸命にやっても本当にうまくいかないときには、
うまくいかないようにできているのです。
仕事だったら、クビになるとか。
病気になって、休まされることもありました。
すると不思議とまた次のステージが与えられました。
新しい土地でがんばりなさい、と。
いのちの意味を考え続けたこともよかったと思っています。
あのときがなければ、今の平和もありませんし、
この仕事に就くこともなく、
このような体験をすることもなかったからです。
わたしは、ひょろっとした樹をみると、自分を重ねあわせて愛おしくなります。
いつかこの樹が大きく育ってたくさんの花をつけ、
たくさんの実を結んでたくさんの豊かさを与える姿が見えるからです。
そしていつも、根っこが伸びるビジョンを送るのです。
あなたは、生きています。
それだけが、すべて。
だから、大丈夫。