①「自分が受験に合格できますように」
②「自分がベストを尽くせますように」
「祈る」とは、本来②を指します。
祈りとは、人間の中にある仏と一つになり、神聖なる力が発揮されるようになるための手段です。
決して、自分の思い通りの結果を求めるための手段ではありません。
ところが、多くの人が祈りを、「神仏へのお願い」だと思っています。
自分自身の力や存在を低い位置に置き、「神さま仏さま、~が叶いますように」と願ってしまいます。
※祈りに精通する立場の人ですら、そのように教育させられ、信じて疑わない人も多いです。
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決して、私は「お願い」の祈りを悪く思いません。
教えられてきた祈り方を信じる宗教者、信仰者を否定するつもりもありません。
大きな困難が自分の前に立ちはだかるとき、人は神や教祖に向かって「お助けください」と祈ります。
そういう祈り方で救いを求めて、実際に救われている人々も大勢います。
ただ、この祈り方が『他力本願』すぎる場合は、どうなるでしようか。
そういう祈り方をする人は、自分の中に眠っている力を信じられないまま、生涯を終えてしまうかもしれません。
その人は、いつも教祖様にお布施を渡し、依存して助けてもらいながら、自分なりに幸せな生活を維持していることでしよう。
それも、個人の自由な生き方です。
ただ、私はそういうタイプではありません。
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それから、祈りについては、結果を委ねられているかどうかも大切なポイントになります。
未熟な人間が支配する社会には、「光と闇」が共存します。
どんなに強い人間も成功者も、人生には、必ず『自分の思い通りにならないこと』が起きます。
その人が、『乗りこえるべき"理不尽な"道』が来てしまいます。
人生には、絶対に避けては通れない凸凹道があります。
凸凹道を通る日が必ず来てしまうならば、お願いするにしても、
『自分の理想通りになりますように』と祈るより、
『自分やその人がベストを尽くせますように』と私は祈るようにします。
結果が思い通りであろうがなかろうが、
その人が『起きた出来事』を受け止めて、『乗りこえられる力』『たくましさ』が発揮できるように、私は祈ります。
(私が14才の時に受けたイジメも集団暴行も、今はそう受け止めています。集団暴行を受けた現場ですら、今の私は鼻歌まじりで立ち寄ることができます。)
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補足すると、スピリチュアルな力をもつ人こそ、金や地位(階級)、名誉などにも執着しなくなります。
スピリチュアルな力をもつ人は、結果的に社会でも自立して、十分な生活を送っているとは思います。
しかし、本当に祈りの力がある「スピリチュアルな人間」ならば、そんなものにすがることなく自然に生きられます。
そして、「祈りからわき出る力」は、特別な人だけがもっているわけではありません。
誰もがもっている力で、祈ることは誰にでもできるのです。
ただ、今の時代、とくに日本人には馴染みがなくなってしまっただけです。
「私たちがいくら世界平和を祈ったところで戦争は止まらないじゃないか!無意味だ!」
そう思う人も多いでしよう。ただ、祈らなくても戦争は止まらない一日ならば、私は世界平和を祈りながら、今日一日を生きる方を選びます。
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あなたが常に元気で安定した生活を送れるに越したことはありません。
ただ、あなたの生活状況が悪い時でも、あなた自身や周りの人たちの「心の炎」が完全には消えないように、私は祈り願います。
決して、あなた自身の「思い込み」や「社会の価値観」で決められた『ベスト』を意味するのではありません。
ただ、純粋に…
「私が今、ベストを尽くせますように」
「あなたが今、ベストを尽くせますように」
私が信じる祈り方で、外の神と、自分とあなたの中に眠る神から授かった力に対して働きかけます。
このあたりの詳しい話はいつかまた*^^*