「お天道様に恥じない生きかた」ってなんだろう?
そんなことを考えていました。
「あなたの人生なのだから、あなたの責任で、本当に望んでいることをやってはどうですか」
と相談者の方にお話しするたびに、
「人として、いかがなものか」
「そんなことしたら、だらしないと思われる」
「ゆるされない」
など、
まるで「神が裁く」とでもいうように、
恐怖にも似た反応が返ってくることがよくあるからです。
わたしは、神は裁かないと考えています。
裁くのは人であって、神ではない、というのがわたしの考えです。
神が完全な存在であるなら、
神に「要求」などあるはずないからです。
「〜すべきである」
「〜ねばならない」というのは、
不完全(だと信じている)な存在である、人間ならではの感覚のような気がします。
星も、木も、花も、鳥も、不満や愚痴をいいません。
当然、要求もしません。
要求していると感じるとしたら、人間としてのわたしたちが「要求」を持っているからです。
日当りの悪いところに蒔かれた種は、
その中で精一杯生ききります。
もっと日が当たるところがよかったのにとか、
もっといい土壌がよかったなぁと思っても、
自分の意志で動くことはできません。
せいぜい、陽のエネルギーに向かって精一杯、枝葉をのばすだけなのです。
自らの意思で環境を変えることをゆるされているのは、
人間の特権ともいえます。
だとしたら、わたしたちは、その与えられた恩恵をありがたく受け取って、
望むように生きたらいい、と思うのです。
「お天道様に恥じないように」
日本にはそんな美しい言葉があります。
天に恥じない生きかたって、どんな生きかたなのでしょう。
それは、神に恥じない生きかたなのかもしれません。
神から託されている、「自分の意志で生きる」という自由。
それを感謝して受け取り、体験していくことこそ、
神に恥じない生きかた、なのかなと思うのです。
神社に祀られているご神体は、鏡であることが多いですね。
鏡にうつるのは、自分。
自分の姿に恥じない生きかたこそが、神に恥じない生きかたなのなのかもしれません。
「人として」あなたが与えられた天命を生ききってください。
あなたに与えられた、自由というギフトを投げ出したりせずに。
あなたが向き合うのは、あなたという神。
自分に恥じない生きかたこそが、あなたの最高の生きかたになるでしょう。