長くおつきあいさせていただいているひとりのお客様が
「自分が嫌い」という感情に気づいたときのことを
面白いたとえ話で教えてくださいました。
「鍋の底に、シミみたいなものがあって、模様と思いたくてずっとみないようにしていたけど、
ある日突然はがれてきて、どうしようって感じだった」
「自分を好きになると人生はうまくいく」とよく言われます。
実際に、そうだなぁと、わたしも感じます。
ですが、わたしがお会いした方はみんな、「自分が嫌い」という感情をお持ちですし、
「うまくいっている」人は、実は「自分が大好き」ではありません。
どの方のお話を聞いていても、
「自分が好き」という感情は、「自分が嫌い」という感情の裏返しであり、
また、「自分が嫌い」という感情も、「自分が好き」という感情のある側面に過ぎないと
感じるのです。
「自分のことが嫌い」という感情を詳しくみていくと、
そこには、「期待」が存在します。
「自分は失敗もするし未熟な人間」とはじめから知っている人は、
嫌いもなにも、「未熟な自分」と認めているので、
「あるべき姿」に対する裏切られた期待もありません。
「嫌」という感情は、「そうである自分を認めたくない」という、
逆にいうと、「自分が好き」というプライドともいえます。
結局は「好き」という感情も「嫌い」という感情も、
「他者とは違う特別な自分」というエゴの幻想から起こる感情なのです。
つまり、「好き」も「嫌い」も同じ思いから起こります。
「自分を好きになるとうまくいく」というのは、
「嫌い」と思い続けた人が、「好き」と思えた瞬間に、過去の痛みが癒され、
マイナスとプラスが合わさりあって、ゼロになるような感覚なのかなと思います。
「大嫌い」が転じて「大好き」になり、「大好き」が増大していくと、
今度は敵も増えていきます。
「自分は特別」というエゴが勢いを増していくからです。
鍋のたとえ話に戻りますと、
シミに見えるのが、「自分が嫌い」という感情によるもので、
模様やきれいな柄に見えるのが、「自分が好き」という感情ということなのだと思います。
でも、大事なことは、鍋のシミでも、柄でもないのです。
わたしたちは、みんな鍋だということ。
そしていのちの鍋は、どんなに使っても壊れない鍋なのです。
人生で経験するできごとは、わたしたちといういのちを使ってつくる料理のようなものなのかもしれません。
料理は味付けに失敗したり、焦がしたり、みんなが大絶賛するようなおいしいものができたりと、
人それぞれ違うものをつくることができますが、
使う鍋にシミがあるとか、柄があるとか、立派な形であるとかは
関係がないかもしれないな、
わたしはお客様の話をきいて、そう思ったのでした。
わたしの鍋は相当に焦がしたり、激しくいろんなことに使ってきたので、
たぶんシミだらけで傷だらけだったりするのだと思います。
彼女のお鍋は、とてもきれいに使われてきて、きっとそのシミがとれたことで、
清らかなお水をあたためることができ、その清潔でやわらかなお湯でだれかをあたためるのかもしれません。
鍋をきれいにしておくことは、道具を使うためにとても大事なことだと思います。
心のお掃除もきっと必要なときもあるでしょう。
でも、心の鍋は、なにかを作るためにあるのだと思うのです。
鍋の汚れをとることが目的になっていたら、人生はつまらない、
そんな気がします。
人はそれぞれに好きな料理を作っていきます。
もしかしたらおいしいお茶を淹れていく人もいるかもしれません。
好きなものをつくり、それを分ちあっていく。
それがいのちの鍋の活かし方なのかな、
わたしはそう思ったのでした。
バラエティに富んだ、豊かなお料理を作って分ちあっていきたいですね。
わたしたちの人生をより豊かにしていくために。
失敗などありません。
焦がしたら、また新しいお料理をつくるだけ。
生きるってすごくシンプルで楽しいこと。
今のわたしはそう感じています。