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【ぼくの少年期 ~横須賀小戦争~(1)】 
2021/11/11 生活

▶幼少期◀

  周りから見たら、一人っ子の僕は裕福で幸せな子どもに映っていたかもしれない。

でも、サラリーマンの父はいつも家で怒鳴り散らしていた。

 

自分で稼げない浪費家の母は、裏で借金をしまくり、父からDVを受けていた。

 

閉鎖的な我家で両親の喧嘩は絶えず、父の価値観が絶対だった。

お調子者の母は、父不在時は僕の味方をしてくれるが、借金があるので父には逆らえない。

 

僕はいつも一人ぼっちだった…

 

僕にも理由があるのに、世間体を気にする父は頭ごなしに僕を叱った。

 

小学校高学年の時、夕方5時のチャイムには帰らされた。僕が、「周りの友だちは帰ってないよ。僕ももっと遊びたいし、仲間外れになっちゃうよ…」

そう父に訴えると、

 

「お前の周りの奴らだけが変わっていて不良なんだ!ほとんどの子どもが5時に帰るから、市はチャイムを鳴らすんだ!」

と即答で却下された。

 

僕の中には、『話すな!感じるな!信頼するな!』という性質の芽が広がる。

 

僕が父に褒められたのは、成績など世間的に評価を得た時だけだった。

いつの間にか僕自身も、自分の存在そのままでは生きられなくなった。

 

「存在+Do(何かを成し遂げる)」

の状態で常にいなければならない。

 

早くから生きづらさを抱えていた僕は、一生懸命に勉強して学級委員長も長くやった。

 

しかし、良い結果なんて長続きしない…

 

 

 

 

▶青年期◀

  そして中学2年の時、不良たち3人に神社の裏手に呼ばれた。

 

行った先には、20人ほどの会ったこともない不良や暴走族が、改造バイクに乗って待ち構えていた。

囲まれた僕は、鉄パイプや金属バットで殴られて、砂を食べさせられた。

 

集団暴行を受け続ける僕の横を、立派なスーツを着た大人が何人も素通りしていった…

 

 

それからの僕は、完全に人が怖くなった。

外に出られなくなった。

「人間」という存在は、本気で悪魔だと思い込む時もあった。

 

そんな事情も知らず、父は「働かざる者食うべからず!と冷めた目で僕を責めた。

それが父の生き様、戦後の極貧生活を生き抜いてきた父の教育で、親の務めだった。

 

僕は怯えながら、鬼ヶ島のような学校に出席日数ギリギリで通った。

 

授業中、僕の体に今までにない異変が起きはじめた…

 

 

教科書を読む手が震えて止まらないのだ。

過呼吸になって音読すら出来ない。

ただ数行を読むことができず、息切れして泣きそうになる僕。

 

 

そんな姿に、クラスから笑い声がもれる。

僕はさらにイジメられ続けた。

 

毎日、不良たちは窓を割り続ける。

先生は表面上の注意をするだけで、女子生徒とイチャイチャしていた。

 

学校でトイレに行く時は、誰もいない静かな校舎のトイレまで走った。

 

保健室登校もない。

スクールカウンセラーもいない時代。

 

ポケベルが流行りはじめたくらいの頃。

誰かに自分の気持ちを話したり、周りに表現する手段なんて一つもなかった。

 

やがて僕は不登校になる…

 

 

============

 僕のひきこもり生活が続いた。

 

数少ない心療内科に通院・入院をして、結局は留年。

 

主治医の判断で16歳から両親と離れた。

ヨボヨボな母方の祖父の所で、二人暮らしをすることになった。

 

僕は一番いい学校への進学を諦めて、5ランク下の学校へ…

 

有名な小泉議員などエリートたちが通う「横須賀で一番いい学校」を素通りして、急な坂を自転車で登って学校へ通った…

 

父と世間の目、そして出席日数ギリギリラインを気にする毎日で、学校では元気に作り笑いをする。

 

 

『僕にはS0Sを出すことも出来ない』

『S0Sを出せる人も場所もない』

『生き方が分からない』

『誰も教えてくれない』

 

 

あの時の僕は、ひきこもって過食して寝て、現実逃避するしかなかった。

本当にどうすることも出来なかった。

 

部屋の中だけが身を守れる安全地帯だった。

真夜中や台風、大雪の日が好きだった。

誰からも文句を言われずに堂々と布団に潜っていられるから。

 

 

 

だけど、『そんな大雪の日も往復4時間かけて、満員電車に乗って出勤する父』

 

『そろばん世代で肩身の狭い職場に、絶対に休まないで玄関を出て行く父の背中

 

『毎日家事をしてくれる母の姿』に、心のどこかで申し訳なさ「ありがとう」という気持ちがあった…

 

 

============

  祖父と暮らし始めてからも、部屋にこもる事が多かったけれど、通学は休み休み何とか続けた。

結局、僕は一つ年下の同級生と4年かけてギリギリで高校卒業を果たした。

 

それから、児童福祉系の大学で幼児教育などの現場研修までしたものの、とうとう力尽きて初めての中退。

 

その後、地元横須賀を出た…

祖父の介護からも離れ、今までの小遣いを切り崩して、横浜で独り暮しを始めてみた。

 

環境を変えれば自分は変われると信じていたが、またダメだった。

 

成人を過ぎてからも、フリーター、無職、ひきこもり期が続いた。

 

青春時代を楽しむことなく、塵も積もればで貯まっていた貯金もどんどん無くなっていく…

 

 

『毎日何もしていないのに苦しい』

『自分の将来への不安』

『老化する親の介護からは逃れられないという恐れ』

 

 

バイトを始めてみてもすぐ疲れてしまい、人間関係にも耐えられずに辞めてしまう。

結局無職になり、また一人で部屋にひきこもって食べ続ける。

 

体重は128キロになり、毎日が生地獄のものだった…

 

 

============

  だけどこの頃の俺は、親や社会のせいにするのは止めていた。

 

なぜならば、この苦しさにどんな理由があろうとも、成人を過ぎてからは、「自分の人生は自分の責任」と思ったからだ。

 

だから、この生きづらさから解放されるために、自分なりにもがき続けた。

 

気功をやったり、寺修行に行ったり、様々な職種についてチャレンジをしてみた。

でも、やっぱりダメだった…。

 

自殺だって何回考えたことか。

でも自殺なんて、とても怖くて出来なかった(泣)。

 

毎日本当に苦しかった。

 

だけど、憧れのX JAPANのギタリスト故HIDEが生き抜いた33の歳になるまで、もがいてやろうと決心した。

 

そして諦めずに、自分が出来そうなことから行動することを続けてみた…

【俺の変革期 ~やってやる!〜 (2)につづく】

この記事を書いた人
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藤原秀博

1977年生まれ、神奈川県横須賀市出身。X JAPANのギタリスト故HIDEと同じ小学校在学。学生時代にイジメ・集団暴行を受けて対人恐怖症になり、不登校・ひきこもりへ。過去に最高体重128キロ、4ヶ月で40キロのダイエットをした事により摂食障害にもなる。障害者スポーツの指導員·カジノのディーラー·探偵業などの経歴を持つ。現在は会社員をしながら、ピアカウンセラーとしてトラウマ・機能不全家族・ひきこも... >>続きを読む

 

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