京都の龍安寺というお寺の手を洗う手水鉢(ちょうずばち)は手水を入れるところが
四角くなっていて、その四角を囲むように四方から吾唯足知と彫られています。
吾唯足知(われ、ただ、たるを、しる)
もともとは禅問答のようですから、本来は一生かかっても悟ることができないような
難しい意味なんだと思いますが、「足るを知る」という言葉は、たくさんの書籍に
書かれているので、知っている人も多いのではないかと思います。
出家をして仏様の道を進み、悟りを目指していく中での問答に使われる、吾唯足るを知る。
という言葉が一般にまで広まっていったのは、お金の価値を考えるとき、とても心に響く
言葉だからだと思います。
私たちは、お金を追いかけ過ぎて、疲れ切っていると言っても過言ではない状況の中で、
毎日頑張って働いていますよね。
子供たちは、将来たくさん稼げるようになるために、たくさんの競争を強いられて奮闘しています。
お金がたくさんあったら豊かになる。
お金がたくさん稼げたら成功者。
お金がたくさんあったら、ほかには何もいらない。
お金は追いかければ追いかけるほど、まだ足りない。
もっと欲しい。と欲が大きくなって
しまう魔物のような存在なのかもしれませんね。
お金を稼ぐために、家族と過ごす時間を失ってしまう。
お金を稼ぐために、健康を失ってしまう。
お金を稼ぐために、愛情を失ってしまう。
お金を稼ぐために、自分が居なくなってしまった。
こうなってしまったら、なんのために稼いでいるか、全く解らなくなってしまいますよね。
上記の後半に目を向けてみてください。
私たちは、お金を稼ぐことに意識を向けすぎて、いまあるものを失っていくということが、
よくわかると思います。
家族と過ごす時間は、家族を思う気持ちがあれば作れるはずです。
頑張りすぎないようにすれば、健康を害することは、ほとんどないでしょう。
相手を思いやる気持ちを大事にすれば、愛情はそこにあります。
自分の周りにある大事なものを忘れなければ自分が居なくなることはありません。
あまりにも忙しい社会。
あまりにも競争の激しい時代。
あまりにも格差のある世の中で、お金を稼ぐことが勝ち抜くことのような勘違いが
蔓延してしまいました。
そこまで忙しく頑張らなくても、
そこまで激しく競争しなくても、
そこまで勝ち負けにこだわらなくても、今日、口に入る分くらいの稼ぎなら足りるはずです。
改めて、吾唯足知(われ、ただ、たるを、しる)という言葉を考えてみましょう。
なぜ口を囲むように四つの漢字が構成されたんでしょうか?
私は、今日、口に入る分が足りていれば、ただ、それだけで幸せということを知っている。
ということではないでしょうか?
今日食べれることが幸せ。
昨日のことを悔やんでも仕方がない。
明日のことを気に病んでも仕方がない。
今日、口に入る分を稼いで、自分の周りに居てくれる人たちと、足りていることを喜ぶようにしていれば、
病むことも無く、焦ることも無く、こだわることも無い、穏やかで、ありのままの自分で居られる
ということなのではないかと思います。
極端に捉えることはないと思いますが、頑張りすぎてしまっている自分を立ち止まらせて、
足りているものを数えてみてはいかがですか?
疲れた心が満たされていくと思いますよ。
頑張りすぎている毎日に、足るを知る時間を作ってみてください。