「人生は苦しいもの」と思っていませんか。
「学ぶために生まれてきた」とか、
「人生は修行」と言われていますので、
「人生は苦しい」と感じてしまうのかもしれませんね。
わたし自身も、長い間、人生は苦しいものだと思っていましたし、
実際に、苦しいことがたくさんありました。
でも、ある時を境に、そう感じなくなりました。
スピリチュアルな仕事をしていながら、わたしは、
人からはとても左脳的な人だと言われています。
男性的というのかもしれませんが、あれこれ考えてしまうタイプなのです。
考えようとするのではなく、気がついたらあれこれ考えている、
そんな感じです。
瞑想していても、マインドはなかなか静まりません。
わたしの瞑想の先生は、「静けさを聴く」と教えてくださるのですが、
マインドがあれこれいうので、ちっとも静けさにたどり着かないのです。
ある日、いつものように、マインドの声をのんびり眺めていました。
「お釈迦様は、人生は苦である」といっていたなぁとか、
「やっぱり人生は修行なんだろうか」とか、
「魂は成長するっていうものなぁ」とか……
そのときふと、この世に生まれる前のことを思い出したのです。
宇宙の空間に漂っている、宇宙の空間そのものの、形のない自分。
痛みも、不安も、分離感もない、
すべてと一体だった完全な調和の中の自分。
そのときふと、わたしは、生まれるというのは、
この調和にないものを体験しにきただけなのだと、「わかった」のでした。
お釈迦様が言った、「人生は苦である」というのは、
罰かなにかで「苦しまなければならない」のではなく、
生まれる前の完璧な世界では体験できない「苦」みたいなことを
体験しにきただけなのだ、
学ばなければならないことがあるのではなく、
すでに知っていることを思い出すチャレンジをしているだけなのだと、
「わかった」のでした。
わたしたちは、未熟だから「学ばなければならない」のではなく、
「ごっこ遊び」みたいなものなんだ。
わたしが、あれこれ、「苦労した」とか「つらかった」と感じた人生の体験は、
「人生劇場」の演劇ごっこにすぎなかったんだ。
「わたしは、わざわざ苦労しにきたのかぁ」
そう思った瞬間に、
今まで騒がしかったマインドが、しんとなり、
なんともいえない静かな時が流れはじめたのでした。
その瞑想から醒めたあと、わたしは、
「人生は苦である」とか、
「魂の成長のために学ばなければならない」と、
思わなくなりました。
自分自身の体験も、「よくがんばった」と思えたし、
苦しい体験をされている方に対しても、「すばらしい体験をされている」と
確信が持てるようになりました。
なにより、自分自身が、腹をたてたり、つらいと思ったときに、
そのつらさに巻き込まれなくなったような気がします。
「人生は、学びではなく、遊び」
今のわたしは、そんなふうに感じています。