「神が怒っている」という話をよく聞きます。
地震も、火山の噴火も、みな、人間の罪に対する神の怒りのあらわれなのだと。
でもわたしは、なんだか少し、違うような気がするのです。
わたしはある雪の日の朝、毎日早朝参拝に詣でる神社で
不思議な体験をしました。
そのときのできごとを詳しく述べることは控えますが、
当時のわたしは、毎日お詣りをしながらも、ご祭神である明治天皇のことは
ほとんど知らず、明治時代の西洋化や、廃仏毀釈についても、
ゆきすぎというか、あまりいい感じではない感覚を少なからず持っていました。
まだ早朝参拝をはじめて日が浅かったこともあり、
ムキになって大雪の中を歩いていたとき、ふと思ったのです。
明治時代に起きたいろいろなできことは、
明治天皇がしたことなのだろうか?
それからわたしは、明治天皇に関する本や資料をたくさん読みました。
筆者によって取り上げられているエピソードは少しずつ違い、解釈も違いましたが、
その過程の中で、わたしは自分の大きな過ちに気づきました。
わたしたちは、安易に原因を求めすぎている、ということに。
明治政府が、廃仏毀釈を取り決めたといっても、
実際に動いたのは、政府の役人ばかりではなく、
その圧力への恐怖が、人を動かしていただろうし、
戦争で戦ったのは、国家という実態のないものではなく、
やはりそこには、国家という名のもとに集められたわたしたちであり、
今またいろいろと「国家」の不都合が起きているとしたら、
わたしたちに無関係の「国家」という存在が、
それを起こしているのではないのです。
あるとき、森を歩いていたら、火山の噴火のニュースを知りました。
そのとき、大きな枝が折れそうなビジョンがみえました。
一本の木の枝を想像してみてください。
両側に力をかけて曲げてみたとしたら、どうなるでしょうか。
すこしずつたわんで、
もう少し力をかけたら、音を立てて折れはじめますよね。
はじめは、ゆっくりと、
ある程度負荷がかかると、加速して折れていきます。
今、地球で起きていることは、これなのだとわたしは思いました。
神が枝を手折っているのでしょうか。
神が怒っているという考えは、わたしたちの誤った行為に
自ら気づくために有効なメッセージではありますが、
ある側面で、誰か特定の人や、できごとのせいにして、
我が身を振り返ることを怠ってしまう可能性もある、
とても危険な考えなのだと感じます。
わたしたちは、折れるという現象から、現在の状況を理解し、
負荷をかけることを止めることができます。
わたしたちは、いつのときも、わたしたちの現実に向けて
働きかけることができるのです。
わたしたちの歴史はいつも、無言の悪者が存在しているような気がしてなりません。
敗者は歴史に残らず、起きたことのすべての責任を、死してなお、
その沈黙とともに引き受けています。
戦争は、国家によるものとなんとなく信じられているけれど、
国家の実態とはなんなのか?
自然災害を神の怒りのせいにしたり、
ゆきすぎた開発を選択した政治のせいにして、
起きていることに無関心でありたくないと、わたしは思います。
国境は、この地球の上にではなく、
わたしたちの想念のなかにある。
わたしたちがこの地球に与える力の大きさははかりしれません。
だからこそ、わたしたちは丁寧に、生きる必要があるのだと思うのです。
神様は、わたしたちの心のなかに。
神様の怒りは、わたしたち自身の苛立ちのあらわれなのかもしれません。