「離婚は結婚の何倍もエネルギーがいる」とよくいわれますね。
わたしは結婚に関する相談も離婚に関する相談も受けますので、
結婚が難しいという方が多いのも、
離婚が難しいという方が多いのもよく知っています。
昔は結婚より離婚のほうが圧倒的に難しかったかもしれませんが、
価値観が多様化した今、過去と比較するなら、結婚のほうが難しくなったのかなという気もします。
実際に、「おひとりさま」という言葉が注目されているように、
結婚するのは義務のように思われていた時代とはちがって、
「ひとり」を選ぶ人も増えました。
わたしの母が離婚した50年以上前は、どんなに苦労しても、
結婚した以上は添い遂げるのがあたりまえという時代でした。
ましてや子どもがいるのに離婚したというのは、典型的な「かわいそうな人」であり、
わたしも子どものころ何度も「かわいそう」と言われました。
きっと母はその何倍も言われたのだろうと思います。
それは地方の大都市ですらそうだったのです。
ですが今や5組に1組が離婚する時代とも言われ、
離婚が特殊でかわいそうなケースという時代は終わりました。
それでもわたしたちの中には、根強く罪悪感が存在するように感じます。
多くの場合、「結婚しようと思っています」と報告すると、
「よかったね!」「おめでとう」と後押しする言葉をもらえます。
ですが、「離婚しようと思っています」と相談した場合はどうでしょう。
相談をした方が離婚経験者で、「離婚して幸せをつかんだ」と確信している場合を除いては、
賛成されることはほとんどありません。
「お子さんのことをよく考えて」「もう少しがんばってみたら」
たいていの場合、反対されたり、思いとどまるようにアドバイスを受けるのが普通です。
そこで、決意が固まっていたとしたら、他の人のアドバイスに動揺することはないわけですが、
人に相談するのは、自分自身もまだ迷いがあるときですので、
それに呼応するように離婚に否定的な言葉を引き出してしまい、
踏み切れなくなってしまうことが多いのです。
そもそも結婚というのはロマンティックで感情的なものではなく(それだけなら恋愛で十分なので)、
継続を前提とした現実的な契約ですから、離婚というのは前提を考えるなら「ルール違反」。
だから、離婚したい側の気持ちをわかってもらおうと思っても無理な話なのです。
実際に多くの相談をお聞きしていて、離婚して新しい生活をすんなりスタートできる人には
「自分がいい人でいることにこだわらない」という共通点があります。
「相手が暴力を振るう」
「お金にルーズ」
「パートナーが不倫した」
「他に好きなひとができた」
「性格の不一致」・・・
理由はさまざまですが、自分の正しさを証明し、わかってもらおうと思うと時間がかかります。
パートナーがどんなに「悪く」ても、それを突きつけるとパートナーは反発するからです。
「正しさ」にこだわればこだわるほど、新しい生活へのスタートは遠のきます。
なぜなら、そんなパートナーとの関係をつくってしまった自分にも、原因があるから。
「自分を大事にしてくれない人を好きになっちゃう自分がいるんだなぁ」
「他の人を好きになるくらい、自分自身が生活に疲れてたんだなぁ」
相手をゆるすことは、離婚を考えるような関係をつくってしまった自分に責任をとり、
新しい人生へと舵をきる鍵にもなるのです。
自分の正しさを証明できたとしても、離婚が有利に進むだけで、
せっかく苦労して手に入れるあなたの生活がまた同じようなパートナーを引き寄せたりしたら
とてももったいないことです。
わたしたちのエゴは、「相手のしあわせを考えたら」とか「こどもがかわいそう」とか、
誰かを被害者にして結局は、苦しい関係を創りだそうとします。
本当に相手の幸せを考えるなら、自分が100%悪者になってあげればいいし、
「こどもがかわいそう」だからあなたが犠牲になるとしたら、
逆にあなたがお子さんの犠牲者になることを選ぶということになり、
本当にお子さんのためになるかはわかりません。
この宇宙は完全な秩序の上になりたっています。
神の目でみたら、この世界は完全な平和のなかにあるのです。
ただ、わたしたちがエゴを通してしかそれをみることができないので、完全さを見失っているだけです。
離婚への道のりが結婚より遠いのは、手続きが難しいからではなく、
他者の応援という後押しが少ないからです。
でも、もしあなたが本気でしあわせな人生を招き入れたいという覚悟ができていたとしたら、
あなたの思いの力がいとも簡単にそれを具現化するでしょう。
もしあなたが本当に「別れたい」と思っていて「別れられない」状況があるとしたなら、
「わかってほしい」という思いがないか、みつめてみてください。
そしてそのうしろにある、あなたの迷いや恐れをかんじてみてください。
「別れる」か、「別れない」か、それはある意味ではとても些細なことなのです。
あなたの思いはちゃんと知っています。
「わたしは、どうありたいか」。
その思い通りに、現実は創られているのですから。