人の顔色をみていませんか。
「相手の顔色をうかがう人ほど、うまくいっていない」
わたしはご相談を通してそんな現象に気づいていました。
相手を思いやる気持ちは、とても愛おしいもので、
思いやりを持って接してもらえると、誰だってうれしいはずです。
なのに、相手の気持ちに敏感で、
顔色をうかがっているような繊細な方が直面している現実は、
ぞんざいな態度をとられたり、
無関心でいられたりと、
明らかに「拒絶」を受け取っています。
それだけではありません。
自分の力量以上の仕事を押し付けられて苦しくなってしまったり、
人間関係にストレスを感じていたりと、
現実すべてが、あきらかにネガティブなスパイラルに入ってしまっているように感じるのです。
ずっと不思議に感じていたのですが、あるとき、ふと気づいたのです。
「人の顔色をみてはいけない」と。
どんな人も、「誰か」をみるとき、自分の思い込みを通してみています。
つまり、「自分のみているあの人」は、自分オリジナルの「あの人」であって、
本当の「あの人」ではありません。
Aさんのことを、子煩悩でやさしい人と思う人もいれば、
育児を理由に仕事に穴をあけて、無責任な人と思う人もいます。
Bさんの服のセンスを絶賛する人もいれば、
音楽の知識に疎いことに注目する人もいます。
結局、「あの人」はどんな場合も、自分自身の「投影」であって、
「相手」ではないのです。
だから「嫌われているのでは」と思う気持ちで相手をみていたら、
当然、「嫌われているかもしれない」という自分自身の恐怖を相手の中にみてしまいます。
だから、ちょっとしたことでも、
「嫌われているかも」という恐怖を確信する方向に意識を向けてしまい、
それがどんどん現実になるのです。
それに、相手の顔色をうかがうというのは、自分自身の影におびえるようなもの。
そんな恐怖の中にいて、本当に相手を思いやる言葉をかけたり
喜ばれることをする、というのは難しいはずです。
実際に、たとえばお皿を洗う仕事をしていたとして、
意識のほとんどを、「相手からどう思われているか」に費やしていたとしたら、
お皿を洗うことにどれだけ集中できるでしょうか。
人は意識を向けた方向にエネルギーをつかってしまいます。
ですから抱えていることが多くなればなるほど、気になることが大きければ大きいほど、
手元がおぼつかなくってしまうのです。
本当は「相手」など存在しません。
わたしたちは、たったひとつのいのちをシェアして生きていて、
「相手を思いやる」というのは、あえていうなら、「相手の本当の姿」をみるということ。
どんな人にも、真我と呼ばれる光り輝く「神聖な意識」があります。
それを「みたま」や「ハイヤーセルフ」「スピリット」と呼んだりします。それが「本当の姿」なのだと思います。その部分は、どんなときも揺らぐことがないからです。
それがすなわち、「本当の自分」、たったひとつの「神」の顔色をみるということです。
「相手からどう思われているか」という不安から、相手の顔色をどんなにみても、そこに見えるのは、自分自身の恐れだけです。
相手のうしろにある、神の顔をみるようにしませんか。
それは、恐れのない、自分自身をみる、ということなのです。