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ひとつのソース(源)からきた
2022/03/13 生活

カルマ(業)について書きたいと思います。
「カルマ」とは、「やったこと」ということだとわたしは思っています。
 
 
「今、こんな目にあっているのは、昔やった何かの罪の報いである」
と信じられていることが多くて、
占い師や、スピリチュアルティーチャーにそう言われた人もいるかもしれません。
 
 
わたしもそう思っていた時期がありましたし、
実際にそうなのかもしれません。
 
 
今のわたしは「それで今の状況を前向きに捉えられるなら
考えのひとつとしてそう思ってもいいかな」と考えています。
 
 
検証しようがないことなので、その正否を議論するつもりもありません。
 
 
ただ、わたしはずっと「カルマ」について腑に落ちない点がありました。
 
 
それは、「カルマ」というのは個の存在のもの、
つまり、「わたしがした報いはわたしが受ける」という考えです。
 
確かにそれは合理的で平等なように思えます。
 
「当然の報い」という言葉もあるくらいで、
報いというのは必然であり、納得のいくものであってほしいという願望が人間のどこかにあるような気がします。
 
 
 
わたしたちは相対世界に生きていて、すべての事象を二次元で判断しています。
「白」か「黒」か、「善」か「悪」か、「正しい」か「間違っている」か……
 
 
理不尽なことを嫌い、
この世界が納得できるものであってほしいと願います。
 
「いいことも、悪いことも、本人が当然の報いを受ける」
 
それがいちばん、人間にとって納得できる考え方だからです。
 
 
 
 
でも、本当にそうなのでしょうか?
 
 
単に、この世の指導者がそう教えると人を統治しやすいから
そのように教えただけではないか、とわたしは思うのです。
 
 
わたしは、生まれる前の記憶のようなものを思い出すことがあり、

瞑想のときにも見たことがあるし、
いくつかのスピリチュアルの本でも同じような表現を見たことがあります。
 
 
生まれる前、わたしたちはひとつのソース(源)にいたという記憶。
 
 
わたしがみるよくビジョンは、ひかり輝く水みたいなもので、
そこから雫のように「わたし」という魂が生み出される、というイメージです。
 
そして、この世の生を終えて、肉体を離れたら、あのひかりの水辺に還る。
 
そこには、「他者」という認識はなくて、
全部が「ひとつ」。
 
 
 
ヒプノセラピーのセラピストをやっていたとき、
複数のマグダラのマリアやイエス・キリスト、ファラオ、クレオパトラ、釈迦に出会いましたが、
わたしは、魂というのはあのひかり輝く水からきたと思っているので、不思議には感じませんでした。
 
 マイケル・ジャクソンも、ジョン・レノンもみな、
あの水辺に還っていって、すべてとひとつになるからです。
 
そしてあの魂の雫が落ちるとき、わたしたちは
ソース(源)から離れて「個」という体験をするだけ。
 
 
 
この世の「個」という体験は、海の水が地球で冒険する旅に似ていると思うのです。
 
 
星の影響や気候の影響で、
波が起き、しぶきとなって岩を砕き、
あるときは、雨となって乾いた大地をうるおす。
 
 
真っ白な雲に姿を変えて人を和ませたり、
人の喉の渇きを癒すこともあるでしょう。
 
ときには、台風となってすべてを洗い流してしまうこともあります。
 
 
 
それは、地球という場に存在するたったひとつの水の姿にすぎません。
 
 
わたしたちのからだの7割ちかくは水でできているといいますが、
わたしたちの肉体に存在する水もまた、地球の水の姿のひとつなのです。
 
 
あの海を、濁流を、雲を、構成している水と、全く同じ。
 
 
わたしたちの肉体もまた、水の循環の中に存在しているだけなのです。
 
 
わたしたちはこの世の生を終えたら、
水蒸気となって大気中に放散される。
 
わたしがときおりみる水辺は、すべての水の源なのです。
 
 
 
 
そこで、カルマを考えてみましょう。
 
果たして「個」のカルマは存在するのか?
 
 
人間の関わりにおいて、もしくはこの地上のルールにおいてはありそうです。
 
現世において、意地悪をする人のことを嫌うなど、
人間同士(ときには動物も)に関しては関連性がありそうだからです。
 
 
 
でも前世はどうなのでしょう?
 
たしかに、「なんとなく」虫が好かない人というのは存在したりします。
 
 
でも、あのひかりの水辺に還り、「個」というものが存在しないところから、
わたしたちはやってきます。
 
だとしたら、イエス・キリストも、イエスを裏切ったとされるイスカリオテのユダも
あのひかりの水になってしまうのではないでしょうか?
 
あのひかりの水辺には、汚い水と美しい水など存在しません。
 
すべてが光なのですから。
 
 
 
この世には濁った水や色水があります。
よい水と悪い水が存在するように思えるし、
わたしたちの相対世界では実際にそれらは存在しています。
 
つまり、

よい水が、よいカルマ、
悪い水が、悪いカルマ、
 
と呼ばれているのでしょう。
 
 
 
でも普遍意識でそれらを眺めたら、ただの「水」でしかありません。
 
 
わたしは、カルマは投げかけた個人に返ってくるものばかりではないように感じています。
 
 
タンカーが座礁して、海が汚れたとして、責任はタンカーにあったとしても、
その結果はタンカーだけが負うものではありません。
 
タンカーの側の責任を問うことができたとしても、
 
 
その影響は海域に関わるすべての人、地球全体に及ぶのです。
 
わたしたちは、現実を「自分は関係ない」と拒絶することはできません。
 
 
 
わたしたちは、人との関わりの中で「責任」を明確にして
それを負うように求めることができたとしても、
結果そのものは社会全体、地球全体で負わなければなりません。
 
 
すべては、人類全体、地球全体の問題なのです。
 
 
 
同じようにカルマもそのような側面があるように思います。
 
 
わたしたちの置かれている環境は、わたしたち全員で責任を負います。
 
この世では「やった誰か」の責任を問えても、それははかない現世のことだけです。
 
 
 
わたしたちは、自然環境に、世界経済の状況に、貧困に、
無意識であっても関わりあっている。
 
 
あのひかりの水辺から生み出されたひとしずくのわたしたちが、
どのような世界をつくるのか、それが自分の生まれてきた意味なのだと思います。
 
 
ひかりの水辺では、ひとつでしかない水は、この世ではいろんな姿に変化します。
泥水にもきれいな色水にも、滋養豊かなスープにもなれるのです。
 
 

わたしはどう生きたいか、真剣に考えてみませんか。

わたしたちの源の、「水」に、還ってみて。

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Yuriel

〜 魂のテーマをナビゲート 〜 ☆「癒すこと」が目的でないホリスティックカウンセリング&スピリチュアルコーチング☆ A Course in Miracles(奇跡のコース)をベースにした、 超意識を活用したカウンセリングをしています。 ある時期には、電話占いサイトを中心にスピリチュアルカウンセラーとして 4年でのべ5000人以上のスピリチュアルリーディングをさせていただき、い... >>続きを読む

 

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