空気が澄んでいる季節は、星がきれいですね。
北極や南極では、一日中、太陽が沈まない「白夜」の反対で、一日中、日が上らない「極夜」という時期があります。
この時期に南極観測に残る各国の隊員は、それぞれの基地を訪問してパーティーをしたり、気分が沈まない工夫をするのだときいたことがあります。
ひかりを浴びる時間が少なく時期に気分が沈む「冬季うつ」と呼ばれる症状には、光をたくさん浴びる治療もあるそうです。
わたし自身も、光を補い、気分を上げることに賛成ですが、いつものように森を歩いているとき、浮かんだビジョンは違いました。
目にみえるものは、光があるからみえますが、真っ暗やみではみえません。
みえるもの、というのは、建物であったり、身体であったり、表情であったり。
宝石であったり、お金であったりするかもしれません。
そしてそれらは、わたしたちの生活を豊かにし、安心を与えてくれています。
でも、それらはまた、「目にみえる」ということが、ひかりの反射の知覚であることからもわかるように
有限であり、またいずれなくなる運命でもあるということでもあるのです。
光がどんどん弱まって、闇に包まれたとき、わたしたちは、頼りにしていた物質の世界のあらゆるものを見失います。
それはわたしたちに、「ある」ものですら、「ない」という不安に陥らせてしまうこともあるでしょう。
でも、その真っ暗やみの中で、不安を遠ざけ、心静かに待っていると、自分の中には、ちゃんとひかりがあるのがわかりました。
それは、わたしの中にいつもありつづけたひかりであり、外の世界がまぶしすぎてみえなかっただけで、
生まれたときから、もしかしたら、生まれるまえからずっと、わたしとともにあるひとつの星でした。
そして、目にみえるものをすべて失った真っ暗やみのなかに、ひとの数だけ、それはありました。
空から眺めてみてみたら、地球は、美しい夜空のように、それぞれのみたまの光がきらきらと輝いていました。
どんなときにも、何が起こっても、わたしたちのなかには、いのちの星が輝いています。
家や宝石、あるいは愛する人。
美しいもの、愛おしいもの、便利なものは、わたしたちを楽しませ、豊かにしてくれています。
でも、それは永遠に「ある」ものではなくて、いつか、もしくは突然に、失うものでもあります。
それほど脆い存在であるにもかかわらず、わたしたちの心の奥に芽生える恐れは、それらを当てにし、執着してしまったりするのです。
ひかりのエネルギーの少ないこの時期、気づくことは難しくても、たしかに輝いている真昼の星のようなわたしたちのうちにある、わたしの星に目を向けるチャンスです。
目を閉じて、そっと、「なにもない」時間を恐れを持たずに、味わってみてください。
そして、その漆黒のやみの中を、ただ静かに、安心して眺めてみてほしいのです。
あなたの中にある、あなただけの星が輝きはじめるまで。