この言葉は、とても有名ですから、聞いたことが無い。という人はいないと思います。
ですが、この「袖触れ合うも多生の縁」という言葉の「多生」の意味を知っている人は
少ないと思いますが、いかがですか?
「袖触れ合うも多少の縁」じゃないの?と思われる方も多いと思いますし、
「多少の縁」でも意味として通じますから、疑うことも無く、
そう思ったままの人も多いでしょう。
この言葉、実は仏語から来ていまして、「多生」とは「六道」といって、
天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道という迷いの世界を
何度も輪廻転生(繰り返して生まれ変わっている)している。
知らない人と、たまたま道で袖が触れ合うような、ちょっとしたことも、
前世からの深い縁があるという教えなんですね。
縁が合って一緒に居る。なんとなく縁と聞くと、良縁と感じて、仲のいい親友や友達、
大好きな恋人や伴侶をイメージすると思いますが、
縁には、もちろん良縁だけではなく、切りたくても切れないような縁があったり、
会いたくないと思っていると、会ってしまったり、
近くに来ないで!と思っている人が近くに来てしまったり、
こっちは望んでいないのに、しつこく付け回されてしまったり、
嫌だと思う縁も数え始めたら、たくさんありますよね。
良縁だけが縁ではない、嫌な縁も縁なんだ。と思って、
もう一度「多生の縁」と考えてみると、この言葉の意味深さを感じると思います。
六道を繰り返して、生まれ変わっているわけですから、
修羅道の縁では、争い合ってしまう関係になります。
畜生道の縁では、本能のまま、どちらかが支配する関係になります。
餓鬼道の縁では、満たされない飢えた状態で奪ったり、奪われたりする関係になります。
地獄道の縁では、罪を償うための苦痛を与えたり、受けたりする関係になります。
こうして見ていくと、縁の深さや関係を考え直す気になってきませんか?
天道が一番上だから自由なんじゃないの?!と思われる方も多いと思いますが、
天道では、苦しみがほとんどないため、学ぶことが困難になってしまい、
煩悩からは解き放たれていない状態で、崇高な存在の教えも救いもないため、
辛い状態になってしまうと、自分の居場所が無くなって、
違う道に落ちてしまうこともあるとされています。
人間道では楽しむことも苦しむことも自分の選択の自由が許されており、
神様や仏様など崇高な存在からの、ご守護、ご加護をいただき、学ぶことも出来ますし、
学んだことを実行して、体験、経験として実感できるという、
とてもリアリティのある世界とされています。
リアリティがある世界だからこそ、それ以外の5つの世界の縁も起こりやすく、
触れ合った縁に対して、自分がどう感じて、どう考えて、どう動いて、相手に伝えるかが、
とても重要ということになりますよね。
争い合う縁なら、意地を張らずに相手を認めていけばいい。
支配し合う縁なら、意地を張らずに仲良く一緒に居たらいい。
奪い合う縁なら、意地を張らずに譲り合えばいい。
苦痛を伴う縁なら、意地を張らずに相手を思いやればいい。
意地を張らなければ、敵は居なくなり、仲間が増えて、
譲り合いと思いやりに心が満たされていくということですよね。
神様も仏様も、そういう人には、たくさんの力を貸してくれると思いますし、
多くの学びを教えてくれるとも思います。
心が満たされてば煩悩に悩むことも無くなっていくでしょう。
「袖触れ合うも多生の縁」
どんな縁であれ、意味があります。
縁から感じる意味を考えて、意地を張らずに解決策を考えていけば、
目に見えない力の支援を受けて、悪い縁も、良縁に変えていくことができるはずです。
どんな縁も大事にして、受け止めていきましょう。